あべし!に対する突っ込み

パソコンを買い換えたワケなんだけど、今までのスペックじゃ出来ないものが出来るようになったのは嬉しい。時間がなくてそんな大層なことはしてないけど。


動画を見るなり、CSSで書かれたブログなりを見るにはそれに対応したソフトが必要なわけだ。


複雑化したコンテンツは複雑化したシステムによって、支えられる。パソコンの例で考えるとそれはとても納得のしやすい話さと思う。


で、安倍政権が発足した訳なんだけど、安倍がやりたいのは、憲法教育基本法の改正なんだという。
どうも、愛国心を盛り込んで、公共心の言及を多くし、その上で個人の権利に関する条文は減らしたいようだ。


憲法は置いておくとして、教育基本法の改正について言いたい。


「おまいら、それで何かが変わると本気で思っているワケ?」


戦後教育のせい、はたまた日教組せい(戦後教育の中でも日教組は突出した存在であって、戦後教育が日教組によって行われていたかのように言うのも誤謬なんだけど)


と言われているものの殆どが、よく考えてみると、殆どが消費社会のせい、はたまた情報化のせい、都市化のせい、または雇用システムの変化のせい、だったりするからだ。


教育というのは、社会のインフラとして確かに重要なんだけど、それですべてを解決できる万能薬ではない。それ以外の要素と分かちがたく絡み合っているわけだ。


例えばニートやフリーターの増加がわかりやすいと思う。


ニートの統計なんていうのも、どうも水増しされているらしく、大げさに消費されているようなんだけど、この手の問題には若年性雇用のシステムが大きく関わっている。


90年代以降、企業のリストラを正社員雇用の縮小と、それに変わる雇用として派遣やフリーターを企業が大量に取り込むことで行ったわけで、そもそも、フリーターしか雇用がない、という現実があったわけだ。


さらに、正規雇用や派遣でも、採用口の多い情報通信産業なんかでは、月に100時間以上の残業が当たり前、しかもそれがサービス残業だったりなんかする、という現状では、一定の割合の人間がドロップアウトするのも当然だ。


教育で根性叩きなおしたところで、うつ病の人間と自殺者が増えるだけだ。実際、2000年以降、両方とも増えている訳なんだけど。


そもそも、槍玉に挙げられる「ゆとり教育」ってものがなぜ生まれたのか考えてみる。ゆとり教育はここ数年のものだから、


ゆとり教育=戦後教育」では絶対に無いわけなんだけど、たまに混同して語られるのが不思議だ。


20年ぐらい前の議論を思い出してみると、学歴弊害論っていうのがあった。


覚えているよ、中学生のとき、社会の授業で学歴は必要かどうかって議論させられたの。どんなこと言ったか忘れたけど。


1980年の金属バット殺人事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88%E4%B8%A1%E8%A6%AA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のように、学歴社会が子供に過剰なストレスを強いているのではないかということが語られ、


また80年代以降の消費の個人化や、高度経済成長の終焉に関して、受験という一つの価値観に邁進させ、ただ知識を詰め込むだけでは、これからの社会に適した人材が育成できないのではないか、と思われるようになる。


こういう社会背景から、「個性の重視」という文脈が生まれたんであって、左翼がどうの、という話ではない。


個性とアイディアあふれる人間に企業を引っ張ってもらいたい、なんてことはむしろ、経済人の口から語られていたのであって、むしろ教育現場は、集団性の強調を続けているから、時代遅れだという主張がなされていたのだった。


あと、同時に語られていたのが、「管理教育の弊害」で、70年代、80年代のちょっと地方の公立学校では、スカートは床から30センチ!眉毛が出ていなければ、教師がはさみ持ってきてその場で切る、挙手の角度は45度で、みたいなことが平然と行われていた。


で、教師の体罰で生徒が死んで問題化していたりした。


それに反発した子供たちが、校内暴力を振るったり、


「ぬーすんだーばーいっくうで、はしっりだすー」ことをしていたわけだ。


こういうことの反発から、ゆとり教育ってものが生まれてきた。これは、少子化の影響で大学競争率自体が下がってしまったこと、国民の間に貧富の差が広がり、収入の差が子供の学歴の差になってしまったことで、失効してしまった訳なんだけど、


前提となっている社会の複雑さそのものは変わっていない。


また、右と左の差っていうのは公共性の根拠を国に置くか、権力とは独立した市民社会なるものに置くかの差だけであって、公共性そのものを否定しているわけではない。


子供が野放図に見えるのは、単に教育のせいと短絡するんじゃなくて、それ以外のファクターを目に入れるべきだと思う。


安倍政権の入閣人事を見ていると、例えば10代の性の問題に対して、情報化社会というインフラを変えることはできないわけだ。
だから、いろんな性の情報が降り注ぐなかで、誤らないようにするためには、事前に性教育の知識を与える必要があると思うんだけど、


性教育そのものを「共産主義者の陰謀」とか言って溜飲を下げる素朴なバックラッシャーばっかりで、どうしろって言うんだよ、という感じだ。


安倍は一方で新自由主義者でもあるわけで、情報の洪水や社会の流動化を否定できないはずだから、その前提である情報化社会は叩けないんで、その情報化社会に即した教育を行おうとする方を叩くというねじれ。


で、最初の話にもどる。


美しい国を作ろうとする安倍は、複雑な社会をものすごく古いOSで動かそうとしているように見えるわけだ。


安倍まわりの人脈は戦後を否定し、戦前を称揚したがるけど、
単に、国民の自由を奪い、戦争に導いた思想だからという批判だけじゃなく、


戦前の教育システムは、戦前の社会だからこそ機能しえたわけで、今の時代に乗せようとすると、高度資本主義という経済システムと齟齬を起こすよ、という主張もしたほうがいいと思う。


まだ書きたいことはあるけど、今日はこのへんで。